昭和42年1月22日夜の御理解



 信心によって、お互い有り難くならして頂く、そんな稽古をさして頂いておるわけですから、お参りも熱心に、教えを頂く事も熱心にさして頂くわけでございます。ですから、日常生活の上にも、有り難くならして頂く材料がたくさんあるのでございますから、なら有り難くならして頂く為に、色んな事、全ての事にです、もう全ての事に渡って、実意を込めて全てを大切にして行かなければ、有り難くはなれないと私は思うですね。
 まあいつも私が、いつもお風呂なんか一番始めに入りますから、そのお風呂でも頂かせてもらう、いわゆる大切にさしてもらうとですね、確かに有り難くなるんですね。これは後から入って来る人の為に、と言うようなことは、これはもう道徳的な考え方です。それだけでは、どうかせんけれども、その、それを大切にさしてもらう、お水ならお水、お湯ならお湯、石鹸なら石鹸、ね、歯磨き粉なら歯磨き粉と。
 もうほんとにそれはあの、大事にさして頂く。まあそれは形は始末倹約のようにあります。大事にするということは。ね。けどもほんとにあの、大事に押し頂くというところにですね、やはり、例えもし、その水に、またはその様々な物にですね、命があるならばです、やはり、こちらにも押し頂いて、有り難うございますと言うじゃろうと思うんです。それが確かにこちらに響いてくるです。
 皆さんほんとに信心でその事を実行してごらんなさい、これはお風呂入った時に、後の人の為に湯を沸かしとかんならん。後の人の為にお湯を綺麗にしとかんならん。気持ちの良かごと綺麗に洗っとかなならん、と言うだけではですね、それだけです。ね。また、電気なら電気を粗末にしないと言うようなことでもです、これは、不経済だから大事にすると言うだけだったらです、有り難いも伴わないと思うんですよね。
 もうほんとに神様の御物として、無駄な事があっちゃならん、必要な時は神様、何ぼでも使わしてもらわんなりませんから、必要無駄な所には、もうこんりんざい無駄な事があってはならないといったような考え方、大切にするとはそういうこと。また、そういういうのと、中からですね、有り難い、確かに有り難くなれれるです、お風呂から上がってくる時になら上がってくる時にです。「有り難うございました」と言うて、まあお風呂にお礼を申し上げて出て来る時に、確かに有り難うございます言わなおらんならんほど、有り難いです。
 今日私は、ちょっとあの、秋永先生の事呼びに行っておりましたから、もう何人か入った後でございました。いつも私は思うんですけれども、もうほんとに、風呂桶はそっち置き、石鹸ならこっち置いては、そしてお湯はもう、少ししかない。しかもそれが熱いならいいけれども、温いときておる。さあ、それから私はお湯を、私はもう、とにかく入ったら、必ずその、肩までがいっぱいにならなきゃできませんから、もう温いけれどもいっぱいに休ませて頂いた。
 それから、釜をあつこうた所が、もう石炭が少しでしたからまた、入れてさしてもらった。誰もおりませんから、もう声かけることもできませんでした。ほいて、沸くの待たせて頂いてから、まだ、そのあがったうえに私のぬる風呂ですから、またそれをよく、もうちっとお湯を足さしてもらった。でから、また石炭を一つ足さしてもらった。そしてまた、綺麗にこう、まあ手を取る事で仕方ない。
 そういうその、大事にさしてもらうということに、手を取れば取るほど、それでも「ほんなこと、もうどうしてやっておるんじゃろうか」て言うようなものが、一つもないですね。大事にさして頂くということは。ね。そして、皆もこのようなふうにしたならば、皆も有り難くなるようのにな、、と思うだけです。これだけは、いくら有り難くなろうと思たって有り難くなれませんですね。物をろくそにするようなことでは。ね。
 布団一つたたませて頂くでもですよ、もう押入れを開けた途端に、こんなふうにして入れてあってごらんなさい、もう有り難いなんか、拝む気持ちすら起きてこんのです。ね。使い終わった時に、きちっとたたんだならやはり、合掌しなければおられない。また、出す時にも、何とはなしに、合掌しなければおられない心が生まれて来るです。ね。
 もうそういう事には時間かけていいです。どんなに忙しかってもですね、それはなら何故かと言うと、有り難うならせて頂く稽古をさして頂いておるのですから、ね、人でもやっぱり大事にしなきゃいけません。
 今日ある方が私に、先生、いつもほら自動車を持ってるんです。いつもその、乗せて帰るぶんなら良かばってんが、もう自分方まで送ってやるもんのごと思ちから、「はあ、道はこっち行った方が近いよ。あっち行ったが近いよ」と後ろから言わっしゃる。ほいでけんで、もやもやしてから、もうこの頃「ここで降りてください」ち言うてから降ろした、と言う話をするんですね。
 ほんこて厚かましかのう、とこう普通なら言うところでしょうね、けれども、「あんた何の為に信心しよんの」ち私、あの、その場ではいわなかったけど、段々話した事でございました。ね。もうほんとに人をわざわざほんと乗せて行ってですよ、そして有り難くなれないなんて、もうこんな馬鹿らしい話はないですよ。「あん奴ばっかりはほんのこて、厚かましい奴」ち言われて、そっちからまた帰らんならん。
 自動車乗っとるたびに、罪作らんならんです。ほんとに自動車持っておるおかげでです、もう人が、それがましてご信者さん、もしこれが粗末にでも扱うたら、またもいらんと言うようなことにでもなったら、もうそれこそ道の上にも、ひれいにも傷が付く。ほんとに椛目参りが楽しゅうならせる為にでも、自分の信心が、まあいうなら先輩であればあるほどにです、ね、果たしてそれがほんとにそう、まあ自分の自転車が、もうパンクしかけとったっちゃですね、もう乗せて行かなければなかったです、ぼろくて自転車に。
 例えば、教会にいつ戻りで、ほー、あんたパンクしよるとけんで、いやよかがなっちから、もう乗せなきゃ私が、そしてそこの、(        ? 信心話でもしてこなければですね、私はその、そうじゃなくてね、この大事にするということなんです。大切にするということ。例えば、その人がんなら、横着な人でありましてもです、ね、ほんとに厚かましい人でありましてもです、んなら、ほんとにあの、大事にさせて頂いてその人の前まで、んなら送ってあげるといたしましょうか。
 それが、・・?かなんかであるならばです、そっからお乗り物があるなら、さあ、そこで降りて下さいもあるけれども、まあちょっと回ればよいのですから、もう乗せてあげたら最後です、私は、家の前まで送ってあげるのが信心だと。ね。ただ、空車を利用させるだけならです、たいしたことないと思うですね。
 やっぱりあの、大切にすると言うのですから、そしたら、どんな厚かましい人でもです、ほんとに心から、「済みませんでした」とこう言うに違いないです。降ろされたもんなら、「そこまでも送ってやりゃ良かところへ」とこう思てから、かえって不足を思うくらいでしょう。これではですね、そこから有り難いものが生まれて来んです。
 だから、そこんところは、私ほんとに、ある意味でやはり、この馬鹿とあほうにならなければならんな、とこう思わせて頂いたんですけれど、結局ですね、結局ほんとに、百人百様でね、一人ひとり違うのでほんとにこれは、自分達の気持ちの事ばっかじゃいかん、といったことも思うこともございますですね。ね。
 ですけれども、有り難うならして頂く稽古ならです、そうして大事にしなければ有り難くなれないです。「もうおかげでございました。よう助かりました」と心から喜ばれてごらんなさい、はあ、送ってあげて良かった、と言う有り難うなるです。ね。ほんとあん奴は、厚かましいやっちゃ。もうまたか乗せんぞ、よ言うようなことで、送ってあげたっちゃ有り難くなるだんじゃない、かえって罪作らんならんようなことが、有り難くならして頂くお互い稽古をしておるのだから、ね、ただお参りをする、御理解を頂くだけでは、私は有り難くなれないと。ね。
 やはり、お水ならお水でもです、ほんとに一つ絶対に大切にさして頂くとですね、そのお水が有り難うなるです。確かに。間違いないですね。それからもう、ほんとにあの、もったいなかけんでと言うてから、ね、もうその始末倹約の心だけで、もったいないというようなことでは、私は有り難くなれないと思う。ね。欲が伴うてくるからです。
 けれども、神様の御物をそうしなければおられない、という私は気持ちですれば、それがですね、確かに、それこそ、タオルならタオルがお礼を言うような感じで、こちらが有り難くならしてもらいます。もう日常の中にどのくらい有り難くなれれる事を無駄にしておるか分かりません。お互いほんとに有り難くならせて頂かないけんです。ね。
 嬉しい事は違うですよ。もう嬉しい時には、もう全然言わんでいいことまで、なんかこう、口軽に言うておる。あれが嬉しいのじゃないです、有り難い、有り難いと分からにゃいかんです。それが有り難くならせて頂く為にはですね、もう全ての事になるほど、実意を込めて全ての事を大切にして行かなければです、私は有り難くなれないと思うですね。どうぞ。